院長 武田 貢 生い立ち

岐阜県出身 貧乏農家の次男坊

昭和33年4月3日、岐阜県羽島市で生まれました。貧乏農家の次男坊でした。もともと専業農家でしたが父は、農業の先行きに不安を持ち、40歳から羽島市の消防署に勤務し始めました。公務員は勤務年数と学歴で給料が決まります。戦前のことですから義務教育しか受けさせてもらえなかった父は学歴がないことによほど悔しい思いをしたのでしょう。「貧しくても大学までは出してやるから頑張れ、お前は次男坊だから手に職をつけて、小さくても自分の店を持て」と、小さいときから私に言っていました。実際貧乏でした。兄のお下がりの服を着ては学校に行っていました。家族で旅行など一度もしたことがありませんでした。

高校2年2学期に、歯科医師になろう!

幸い岐阜県ではトップ校である岐阜高校に入学できました。自分は社会・国語が得意でしたから文系にいくつもりでしたが、昭和50年ごろは歯科医院が不足していて親も歯科医院にかかるのに朝早くから並んでの順番待ちで困っていました。私は、歯科医師なら、何の財産もない自分でもなんとか医院を持てそうだ、人と楽しく話をするのも好きだ、患者さんのために頑張れば頑張るほど喜んでもらえられるやりがいのある仕事だ、自分の一生をささげるだけのことはある、と決め、あえて理系を選択しました。両親も毎日朝早くから夜遅くまで農作業をしていました。いつか親を楽にしてあげたい、との思いで、自分の頭の悪さはわかっていましたからなお一層勉強に励みました。クラスの半分は国立大学医学部を受験する高校でしたが、迷わず歴史のある福岡県立九州歯科大学を第一志望に決め、現役で合格できました。念のために、けっして「ガリ勉」ではありませんでした。小学校・中学校では生徒会長、高校では学級委員にも推されました。中学のときは卓球の市内大会で団体優勝2回、個人でも準優勝を2回しました。今でもそうですが、ちょっとひょうきんで、まわりの人を明るくするのがうれしかったようです。かつ一応「武田の言うことなら・・・」というものはあったようです。

小倉で一人暮らし、そして歯科医師に

大学では、日本育英会の特別奨学生に選ばれることもできました。週5日家庭教師のバイトをしていたこともあります。一人暮らしで自炊していました。この経験から主婦業も少しわかるようになりました。お金はありませんでしたが、時々は友人と夜遅くまで酒を飲み、北九州市の小倉で青春を謳歌していました。6年生になると、大学の教授から研究室に残るように依頼はありましたが、私は開業が目的でしたから昭和58年卒業と同時に千葉県佐倉市ユーカリが丘駅前にあります大学の先輩の歯科医院に就職しました。やはり勉強には東京が一番です。九州や岐阜はよいところですが、「腕を磨く」には東京に出たかったのです。勤務していたときから今現在も、休日は都内に研修に行く日々です。その医院では歯科医師としての技術だけでなく、人としての生き方も教えていただきました。人生の師と仰いでいる院長から、もう開業してよろしい、との許可をいただき、昭和61年、都内へのアクセスが近いわりにはまだまだ発展する余地があるとの判断からこの初石で開業させていただくことになりました。

趣味は、旅行(地理・歴史は好きです)・卓球(先述しましたが、中学のとき、市内大会準優勝2回)・テニス(家内と)ですが、ほとんど機会がなく、現実は、都内に研修に行くのと親孝行とスタッフ孝行が楽しみです。患者さんをはじめ家族・スタッフなど自分の周りの人に、何か喜びをさしあげることができ、笑顔になってもらうことが自分の本当の趣味・楽しみ・ストレス発散法です。

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